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昨年、硫黄島に膝まづいて 土下座をした安部総理の話が 話題になりました。

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昨年、硫黄島に膝まづいて
土下座をした安部総理の話が
話題になりました。

http://heikoukadoukyoujyaku.blog.fc2.com/blog-entry-796.html

実は、数年前、たけしのテレビ
タックル等でもお馴染みの独立
総合研究所の青山繁晴さんの
講演をお聞きする機会に恵まれ
ました。

久し振りに、あんなに熱い人を
みました。歯に衣着せぬ発言で、
目には涙をうかべながら、ある
史実を語りはじめました・・・。

その史実の舞台になったのは、
戦後60年以上忘れられていた
島、硫黄島。

クリントイーストウッドが映画に
したからこそ、脚光を浴びました
が、それまでは、まったく忘れ
られていました。

硫黄島は、日本とグアムを結ん
だ線のちょうど真ん中にあり
ます。

第二次大戦の時に、この島を
アメリカが抑えることは、
爆撃機を東京へ往復で飛ばせ
る意味を持ち、東京への空襲を
可能にする、戦略上、非常に
重要な意味を持ちました。

それは、日本にとっても同じこ
とで、ある意味、この島を落と
されたら、空襲を浴びることが
分かっていたのです。

この島をめぐって、日米が戦闘を
繰り返したのですが、島の大きさ
から言って、当時の戦闘で考えて
も、2,3日で占領されるという
のが当たり前とされていました。

しかし、日本の軍人たちは、なん
と一ヶ月以上守り続けました。

しかも日本軍は、指揮命令系統
こそ職業軍人でしたが、その他の
ほとんどの兵隊は、人手不足だっ
た為、ごく普通の訓練を受けてい
ない一般人で構成されていました。

(文献によると、床屋さんとか、
饅頭屋さんとか、本当にごくごく
普通の一般市民です。)

彼らは、どうやって守りぬいたの
か。確実に死ぬと分かっていなが
ら・・・。

当時、この戦いの指揮をとった
栗林忠道中将は、自爆を一切禁じ
たとされています。

戦闘で苦しんで死ぬ前に、手留弾
で、自爆をすれば楽に死ねること
が分かっている。

それをあえて禁じたのです。

硫黄島では、それは、非常に酷な
ことだと反発が起き、内紛寸前の
状況にまでなったそうです。

しかし、栗林中将には、そうさせ
る為の理由があったのです。

アメリカに留学していた関係で、
戦時も情報源がアメリカにあり、
そこから得た情報によれば、
日本がなかなか屈しない為、東京
への空襲の後、日本人の子供と
女性をターゲットに殺害をすると
いう作戦が実行されようとしてい
たのです。

(その作戦は、戦後、青山さんが
アメリカを訪問し文献から明らか
になりました。)

それを、栗林中将は、日本兵に
明らかにし、自分たちの嫁と
子供を守る為に、死に物狂いで
戦おうと促しました。

長期間に渡り、アメリカ軍を苦し
めるために、地下にトンネルを掘
り、ゲリラ戦を仕掛けました。

硫黄島のトンネル内は、摂氏70
度に達していたと言われています。

硫黄の匂いが蔓延し、十分な道具
もなく、トンネルを掘り続けました。

小さなハンマーがある人は、恵ま
れている方。何も道具がない者は、
生爪をはがしながら、手で掘り続
けたのです。

自分たちの家族を守ろうという
思いで・・・。一日でも長く、
アメリカ軍の上陸を食い止めよう
と・・・。

そして、物資が底をつきはじめ、
水も不足していきます。

硫黄島は、ほとんど雨が降らない
島で、水の確保ができない状況に
陥りました。

多くの兵隊は、喉をからし、脱水
状態になり、バタバタと命を落と
していきます。

兵力をほとんど削がれた後、最後
の戦いに挑みます。

栗林中将自身も、自分の身分を
明かさない為に、勲章も軍刀も
すべてはずし、自らゲリラ戦を
しかけ命を落とします。

その硫黄島、戦後、日本に返還さ
れた後も、一切立ち入り禁止に
なっています。

なぜなら、国が明らかにできない
史実があったからです。

アメリカ軍が硫黄島を占領した
後、東京を空襲する為に、急い
で滑走路を造成しました。

その滑走路の下には、日本兵たち
の亡骸があるにも関わらず、その
まま滑走路を造成したのです。

青山さんは、語りました。
日本という国は、戦後、硫黄島が
返還された後もそのままその滑走
路を使いつづけている。

亡くなった方々の遺骨を踏みつけ
て、軍用機を飛ばし続けている。

遺骨は、まったく返還されていない。

その事がメディアに取り上げられ
ると問題になる為、国策でずっと
押さえてきた。

『日本の為に、自分の命を削って、
最後の最後まで戦い続けた人へ、
それで申し訳が立つのか!』

『それが、その人達に対する報い
なのか!』

青山さんは、目に涙を浮かべなが
ら、半ば叫ぶように語りました。

会場は、静まり返り、涙を流しな
がら聞く私達に一言、ゆっくりと
語り始めました・・・。

とうとう、国が決断をしたと。

先の国会で、硫黄島の別の場所に
滑走路を引き、現在の滑走路を
引きはがし、遺骨を掘り出して、
遺族へ返還する活動に予算が承認
されたと・・・。

これで、長い戦後がやっと終わる。
忘れ去られていた戦史がやっと
明らかにされ、日本の戦後が終わ
る・・・と。

そして講演の最後に、ひとつだけ
私達にお願いがあると語り始めま
した・・・。

『どうか、どうか、日本の将来の
為に生爪はがしながらトンネルを
掘り続けた彼らに・・・・

本当に飲みたかったであろう、
『たった一杯の水』を・・・

硫黄島の方へ掲げてあげてくださ
い・・・。』と。

今の平和な日本の為に、自分達の
身を削りながら死んでいった彼ら。

これは、たった69年前の話である。
自分が40なので、なんと私が生ま
れる29年前の出来事。

信じられないくらい近い歴史。

戦争の悲惨さを決して忘れては
なりませんね。そんな事を思う
一日でした。
by denhazim | 2014-08-17 15:58